契約書
少し前に「Creative Intelligent ARTist」というタイトルのブログを書いた。仕事は面白いという内容のブログである。
仕事をしていると色々と面白いことに気づく。アメリカ、ヨーロッパ、アジア諸国と取引をしていて感じるのだが、西洋と日本の商いの仕方が根本的に違うところがあると感じた。アジア諸国はほとんど西洋式のマインドで商いをしているように感じるけど。
全ての取引においては契約書を取り交わすことが多い、というより殆どであろう。一番簡単なものでは注文書あるいは発注書になる。品物、金額、納期、決済条件とこれくらいの表記がされている。品物の品種によるが通常は1枚の紙っぺらである。まあ、これで十分なのだが、以前にオランダの会社との取引をしたときは注文書を見てびっくりしたことがあった。なんと20ページ以上の内容だった。品物の品種が多いのではなく細部に渡り保証条件などが事細かく書かれていたため膨大な注文書となっていた。
欧米諸国との会社では必ずお互いの取引を始める前に契約書を取り交わす。言い回しのくどい英語が書かれている。ボクは20年以上米国で生活しているがこんな英語を理解するのは面倒で、もはや弁護士による精査が必要になるくらいだが最近は慣れてきた。
一方日本ではお互いに取引開始時に契約書を取り交わすことは、少なくともボクの規模の会社ではほとんどない。
注文書一枚で十分だと思うのだが、なぜこんなにもややこしい契約書ばかりを取り交わすのか、とちょいと考えてみた。
国家の成り立ちを考察してみると、古代から中世はどこの国も王様がいて王国であったと思う。その頃に大統領とか国家主席とか書記長とかいなくて王様がいた。日本は王様による国家ではなく天皇陛下によるシラス統治の国だった。
西洋の王室と日本の皇室とは全く異なる文化であったのだ。
西洋の王室は国民との間が契約によって成り立っていた。この関係は支配者と被支配者との関係である。もっとわかりやすく言えば搾取する側と搾取される側との関係、ウシハク統治の国だ。国民側からすればできるだけ搾取を少なく契約したいものである。
CGS 「ねずさんとふたりごと」より図を描いています
https://www.youtube.com/watch?v=mlhG0-PxSXo
ところが日本はどうだったかと言うと、天皇と国民との間には契約はない。君民一体が日本の体制である。国民は 天皇陛下を大御心として敬愛し、天皇陛下は国民を大御宝として慈しんでいる。西欧の王室とは根本的に異なる。それが日本の文化の特色で、もともと「契約」という概念はなかった。あるいは「契約」は必要なかった。
契約とは性悪説の国に必要な取り交わしで、要は相手が信用ならないので文章として取り交わす訳である。
天皇陛下は無私の気持ちで国民を愛しみ、そういう 天皇陛下をいただく国民は 天皇陛下を敬愛し支えるという君主と国民との関係は支配者と被支配者との関係ではなく一体となっている。
西洋発想では君主と国民が一体であるという発想は出て来ない。
この国家の成り立ちの違いが西洋ビジネスと日本のビジネスの違いでやたらと契約書を取り交わす西洋ビジネスに発展しその様式が日本に伝わってきたのだと考える。江戸時代とか商いをする上で契約書なるものがあったかと言うと、博打でスッカラピンになったときにお金を借りた時は念書を書かせていたとは思うが、大工に家を立ててもらうときとか契約書なんてなかったんじゃないかな〜?あったとしても簡単なものだったと思う。
現在シリコンバレーの連中と取引しているが、見積などは口頭である。忘れないようにEメールで書き残すが書類として取り交わしはしていない。さすがに注文書は発行するがそれも覚書程度である。いい加減ではあるが別段問題になったことはない。製造社と購入社、支払する側と入金受け取り側との関係だが製造社は購入社を敬愛し購入社は製造社を愛しみシラスの関係で事業している。