座頭市
先日YouTubeの動画で古い映画を観た。
勝新太郎主演の「座頭市」だ。
居合を嗜むボクとしても「座頭市」は興味がある。座頭市は仕込み杖を使い逆手握りでの居合をするのでボクの稽古している居合とは全く異なる。まあ映画なので「えっ!そんな事できるの?」とか思ったりするのだがそこはエンタテイメントたっぷりで楽しめるものだ。
しかし痛快で面白い。ストーリーも人情ありお笑いありお涙頂戴あり充実している、と思う(と「思う」を付け加えておこう。映画評論家ではないのでそのような限定した言い方は映画評論家に失礼に当たるしね。)また映像がものすごくリアルだ、と思う(同上)賭博をやっているシーンとか周りの湿気くささなどがよく映し出されている、と思う(同上)ヤクザの女を切るシーンがあったが女の左の胸を切る。しかし切ったのは着物だけで生身は切っていない。そして切れた着物の胸の部分がするっと落ちる。するとその女の乳首がちらっとのぞく。小泉進次郎ではないがセクシーだ!しかしよく考えられていると思った。乳首の下を切ることにより着物が落ちる。これが乳首の上だったら着物は乳首に乗って落ちない、と思う(同上)そしてその女はヤクザから足を洗いあたらしく人生を切り開いていく覚悟を決める。ここも左胸に心臓がありその心の臓を仮想的に切りあたらしい心の臓に入れ替わったという意味が込められている、と思う(同上)
まだまだ見所は随所にたくさんあるのだが、極め付けは台詞だ!!ご存知の様に座頭市は盲目である。目が見えない座頭市がヤクザの屋敷の中を覗きに行く場面だが、
座頭市:「ちょと中を見させておくんなせ〜」と白目の表情で言う。
ヤクザ:「めくらじゃ中は見えねーだろう!」
座頭市:「いやいや、ちょいとでいいんで」
ヤクザ:「うるせ〜、とっとと帰えんね!」
座頭市:それでも座頭市は中に入ろうとすると
ヤクザ:「おうし、それじゃ見せてやるよ、痛え目にな」
このあとヤクザはボコボコにやられるのだが、日本は江戸時代からヤクザ者もウィットに飛んだ会話をしていたものだ、と関心する場面だ。
座頭市を斃すためにヤクザ連中が襲いかかる場面ではヤクザが「このどめくら〜!」と怒鳴る。先ほどのシーンでも出てきたが「めくら」という言葉は今では差別用語として使用できない。しかし当時はそんなことは御構い無し。「めくら(どめくら!)」と台詞に出ている。このように罵られているのだが座頭市はバッタバッタとヤクザ切る。ヒーローだ!スーパーマンより、アイアンマンより、スパイダーマンよりも次元を超えたスーパーヒーローなのだ〜〜!!
この映画の根底には盲目であるからこそ目開きにはない感性が育ちその感性は目開き以上の能力を発揮し、たった一人でもたくましく生き抜く人生、というテーマがある、と思う(同上)このような人生のほうが今の何でもかんでも保護された世の中よりどれだけダイナミックな人生なのかと考えてしまう。あんまというマッサージ師の職業と卓越した居合の達人、これだけで旅をしながら人生を送る座頭市。
米国の金融資本家が世の中の富の90%を握り豪勢な暮らしをする人生と自分の能力だけでひたすらたくましく生き抜く人生、どちらが面白いかな?