古事記の最初の部分、その後の弐 天
それでは小名木善行先生の古事記を元に、ずっと疑問であった古事記の最初の部分を見ていきます。
「天地(あめつち)」「高天原(たかあまのはら)」「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」というところに「天」を「あめ」と読んだり「あま」と読んだりしている。まずここに注目。
「あめ」とは手の届かない遥か上空という意味を古語では表していたそうで、そこから落ちてくる水を「あめみず」といいそれが詰まって「あめ=雨」となったとのこと。ということで元々は「あめ」と言えば天空を指していた。
一方の「あま」の「あ」は吾、我、彼など人称に用いられ特定された人物ではなく一般的なニュアンスがあり古語ではカタチの特定されない何かと言う意味があり、「ま」は「間」で「すきま」とか「あいだ」という意味で「あま」とはカタチの特定されない何かの中の一隅の間ということになり天空の中の特定の場所。
ここまでが「天」を「あめ」と読む場合と「あま」と読む場合の違いを説明しています。
次に「高天原」ですが「高」は高い所、「天」は前述の通り天空の特定の場所、「原」は「原っぱ」のはらではなく「はらから」の「はら」で、子供はお腹から生まれ同じお腹から(はらから)生まれた人々のことをを意味している、、、つまり「はら」は血縁や血筋を意味している、という解釈となり「高天原」は「高い天空のどこかにある、私たちの血筋のおおもとの場所」という説明だ。
さらに進むと、
「天之御中主神」、これ重要です!「天」を「あめ」と読むのでこれは天空全体のこと。「御中」はそのど真ん中。「主」はあるじ、主人。これをつなげると「天空のど真ん中にいらっしゃるご主人の神」となる。従って「天地(あめつち)が初めて発(あらわ)れた時、高天原(たかあまのはら)に成ったのは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)でした。」までを解釈すると;
「手の届かないはるか上空にある天空と人の住む地上が初めて発した時、高い天空のどこかにある私たちの血筋のおおもとの場所に、最初に成られた神様のお名前は天空全体のど真ん中の主の神様でした。」ということになり何のことかと言うと天空のど真ん中は点でこの点にはカタチとか大きさとか時間とか何も無いゼロ(0)だということです。0に何を掛けても0になり0で割ると答えはありません。大きいのか小さいのかこの「0」を司るおおもとの神が天之御中主神。
最初の神様が現たところまでの説明をしました。
「あめ」とはなにか、「あま」の「あ」や「ま」の意味など古事記の最初の神様が現れるところまででもこんな解説がある古事記です。
この部分は他の古事記ではたださらりと「まず最初に天之御中主神が現ました。」だけなのだが非常に事細かく説明されている。
今回はここまで。次回はこのあとに現れる高御産巣日神、神産巣日神です。
つづく