ブログ「燃料は好奇心」

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子供のように好奇心を持ち続ける男が綴るよもやま話。
山下政治の感性のアンテナがさまざまなものをキャッチします。

自分の自分

2025.02.20

小学校3年生から5年生にかけてずっと思っていたことがある。

授業で鏡を持って来るように、と担任の先生から言われて鏡を持って授業をしたときだ。たしか自分の顔を鉛筆で描く図画工作の授業だったと記憶している。その後鏡をずっと見ていて不思議に思ったのだ。自分の顔を見て自分の顔はこんな顔をしていて、でも自分では自分の顔は見ることはできないけど、自分以外の人は自分の顔をこのような顔をしていると見ているんだ。でもなぜ自分では自分が見えないのか?まぁ、当たり前といえば当たり前のことなのだが、不思議な思いをして、この事をいつも考えていた。そんな思いをしながらまた鏡を見る。鏡に向かって顔を傾けるとやっぱり鏡の中の自分の顔も傾くので、この顔はやっぱり自分だと再認識する。その頃から「自分の自分」は何なんだろうとずっと考えるようになった。「自分の自分」と言ったがおそらく今考えると「自分の中の自分」ということだったのだろう。自分の中に自分がいるのか自分の外に自分がいるのか?もう何が何だかよくわからずにもやもやしていた。小学校3年が終わり4年生になったがこの悩みは続く。普段は何気なく普通にしていられるのだが、ふと夏休みとかに一人になるとまた「自分の自分」って一体何なのだろう、と思う。そして小学校4年が終わり5年生になった。いまだにその解答が得られずに自分のなかのもやもやは続いていた。そのころになると一体いつになったら「自分の自分」が分かるのだろう、そしてこのもやもやした気持ちはいつなくなるのだろう、と思っていたものだ。

そんなある夜眠っていたら自分の身体から自分が浮き上がるような気持ちになったことがある。でもそのときはなぜか頭がガンガンした。その時は夢だったのか現実だったのかはよくわからなかったけど、頭がガンガンした記憶は今でもある。そんなことが何度かあって、そのうちに自分でもそのような気持ちになることができるようになったが、いまではもうできなくなっている。

小学校6年生になって最初のころは「自分の自分」のもやもやもあったのだけれど、そのもやもやも徐々になくなり小学校6年でそのような事を考えなくなった。

なぜこのような小学校時代に感じていたことを書こうかと思ったきっかけは、画家で作家で雅楽歌人である、はせくらみゆきさんのインタビュー動画を観てその冒頭の部分がボクの小学校3年からの思い出と似ているようなことだったからだ。

そのインタビューの冒頭はの内容は;

4歳くらいのころ目が覚めたら天井に目が見えて「あぁ見てるな」と思い誰が見ているんだろうと思い、そのとき「私っで誰だろう」と思ったそうだ。そして次の瞬間嬉しい!と思ったとの事。なぜ嬉しいかというと「私」というのが手足が動くその中にいる、という事が嬉しいと感じた、との事。
私っていうのは思ったら動く手があったり足があったり見る目があったりする中にいるんだ、ということが嬉しかった、とおっしゃっていた。

ボクの小学校3年生の時に感じた事とは異なるのだけれども自分の中に自分がいると感じた点は同じだな、と思う。彼女は「嬉しい」と思ったのだがボクは「もやもや」と思った。

似たようなことを思っていた人が自分以外にもいた事は、、、嬉しいかな?

仏教でよく言われるように、どうも肉体と魂は別のもののようだ。般若心経の一節にも「色即是空 空即是色」というのがある。「色」とは肉体の事と仏教では言う。「色即是空」とは「肉体これすなわち空(から)である」ということであるので魂はどこか違うところにあり、たまたまその魂が肉体に宿っているだけなのだ。また、ずいぶん前に「人は死んだらただのゴミ」という本を読んだことがあるが、やはり肉体ってゴミ扱いされることを考えると「色即是空」なのだ。

取り止めのない事を綴ったが肉体の自分と魂の自分とは一緒にいるのだが別物なのだろうか、いや、きっとそうなのだろう、という結論としよう。小学校3年生といえば8歳〜9歳だ。昭和32年生まれのボクは今年68歳。あれから60年も経ったのか。ちょうどいい、このあたりで当時の思い出をブログに綴っておこう。

了。

 

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